1976119 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

三河の住人の庵

三河の住人の庵

享保の象 その後

ベトナムから唐船で長崎へ入港した象は 
陸路354里を江戸まで歩いた。

享保14年5月25日 江戸は浜御殿へと入った。
象を注文した将軍吉宗は 27日 江戸城へ招いて謁見。

街道筋でも 人気を呼んだが 花のお江戸は 象人気で沸き立った。

象を描いた瓦版や本が出る、川柳や狂歌の題材になる、歌舞伎「象引」が演じられたという。

日本列島 パンダ フィーバーの頃を思えばいい。

肝心の吉宗公は 雌雄の象を飼育繁殖し象軍団を創ろうとしていたのか
牡だけでは どう(ぞう)にも成らぬと 翌享保15年9月浜御殿へ出向いたきり 熱も冷めてしまった。

世間の熱は まだしばらくは冷めず、享保17年
中野に在住の源助なる男は 象の餌を供給していたが 浜御殿の役人に取り入り象の糞を はしか、疱瘡の特効薬として売り出し大儲けした。
くすりの名が「象の泪」とは にくい。

やがて 倹約家の将軍様は 大食漢の象をもてあまし 中野の源助に「お預け」となった。
実態は 餌代の一部支給による払い下げであった。
江戸に来て12年目のことである。

この源助 商才がある男で 象の見世物で稼ぎ 見物客に饅頭を売って稼ぎ と 大活躍。

しかし 熱しやすく冷めやすいのが わが民族の伝統。
やがて 人々に飽きられて 見物にくるものも激減。

下げ渡しの2年後には 餌代の支給も打ち切られ もてあました源助は 餌をケチって放ったらかし。
日本に来て14年 21歳になった象は とうとう栄養失調で死んでしまった。









© Rakuten Group, Inc.